新潟地震
 1964年6月16日午後1時1分、新潟県北部の日本海に浮かぶ粟島の南方の海底40kmを震源とするマグニチュード7.5の大地震が発生しました。北は北海道から西は三重県あたりまで日本列島の東側全域で揺れを感じました。各地の震度は山形県の鶴岡市が震度6の激震だったのをはじめ、新潟、酒田、仙台が震度5の強震でした。しかし、最も被害が目立ったのは最大震度を記録した鶴岡市のある山形県ではなく、新潟市を中心とする新潟県でした。地盤の沈下、家屋の倒壊、橋梁の落下、道路の崩壊とあらゆる被害が県内に集中しました。また、ガス、水道、電気、電話などのライフラインが大きな被害を蒙り、水道は仮配管で供給が再開するまで一ヶ月、都市ガスの完全復旧は半年かかりました。

 被害の大きかった新潟市では、街の中心部を流れる信濃川にかかった万代橋、八千代橋、昭和大橋の3つがことごとく損壊してしまいました。建物の被害としては、鉄筋コンクリート建築の被害が目立ち、市内の1500の鉄筋コンクリートの建物の2割以上が倒れたり傾いたりしました。ちょうどこの年に行われた新潟国体のために造られた競技場や体育館も損壊が激しく、地震後は使えなくなりました。

 このような建物の被害が新潟市に集中したのは、地盤の特性によるものです。新潟市は信濃川、阿賀野川という2つの大きな川の河口に位置しています。そのため地下水位の高い低湿地、旧川床を埋め立ててできた土地であり地盤が軟弱なため、地震発生後数分で地下水の噴出や噴砂の現象がいたるところで現れました。

 また、海岸地帯にある石油コンビナートでは石油タンクが爆発し、大火災が発生しました。出火の原因としては、浮き屋根式のタンクの中の石油が地震の揺れに共振するスロッシング現象によって大きく揺れ、液面が摩擦して出火したものと言われています。火は半月燃え続け、周辺民家300戸ほどがまきぞえとなって焼失しました。これをきっかけに石油コンビナートの地震防災対策の関心が高まりました。

信濃川流域(新潟市)
 半月前に完成したばかりの昭和大橋(写真手前)は崩れ落ち、付近のの舗装道路には地割れが縦横に走りました。後方の噴煙は、昭和石油タンク火災によるものです。
地震の被害総計
人的被害 死者
26名
負傷者
447名
罹災者
86,461名
建物被害 家屋全壊    
1,960棟
家屋半壊    
6,640棟
家屋全焼     
290棟
床上浸水
9,474棟
床下浸水
5,823棟
一部破壊
67,825棟
非住家被害
16,283棟
土木被害構造物 道路損壊
1,007ヶ所
橋梁流失
78ヶ所
堤防決壊
63ヶ所
山(崖)崩れ
168ヶ所
鉄軌道被害
130ヶ所
木材流失
8,530m
県営アパート
 旧市内ただ一つの団地、川岸町の県営アパートでは1棟が根こそぎ倒れ、1棟は大きく傾きました。入居者はすばやく避難したため死傷者はでませんでした。
参考文献: 週間YEAR BOOK日録20世紀 1964(昭和39年),講談社,1964

北陸地方の災害のページ データベースのページへ