データ番号 1
撮影地点 福井市中央1丁目付近
撮影方向 北側から撮影
建物等の名称 大和デパート
画像
  当時の写真の右側で左方向に大きく傾斜している建物が大和デパートです。1937年に建設され1945年の空襲でビル内部が丸焼けになり、その後修復工事がなされましたが、福井地震により無惨にも崩壊しました。大和デパートの崩壊にはこの修復工事が不十分であったことが原因だとされています。当時、福井市内には約47の鉄筋コンクリート建物が存在しましたが、大きな被害を受けた建物のうちの1つがこの大和デパートで、地震直後には多くの研究者の注目を浴びました。この写真は、現地にいた進駐軍の将校、ジェームス・原谷氏が撮影した大変貴重な写真であり、左側にある3階建ての坂井ビルは地震による被害はほとんどなく、当時の写真の左側に見えるように、震災を経ても今なお利用されている貴重な建物(中央三井信託銀行)の1つです。また、大和デパート跡地には北陸銀行が建っています。
当時の様子 現在の様子
参考文献 よみがえる福井震災
写真提供 朝日新聞社(ジェームス・原谷氏撮影)
データ番号
撮影地点 福井市中央1丁目付近
撮影方向 東側から撮影
建物等の名称 坂井ビル(現在:中央三井信託銀行)
画像
 これは坂井ビルと大和百貨店を東側から撮影したものであり、当時の写真にはスコップを手に復旧を続ける人々の様子が写されています。右の写真は現在の様子で中央の建物が当時の坂井ビル(現中央三井信託銀行)にあたります。
当時の様子 現在の様子
参考文献 よみがえる福井震災
写真提供 福井新聞社
データ番号
撮影地点 福井市大手3丁目付近
撮影方向 西側から撮影
建物等の名称 福井城址
画像
 これは福井城址南側の内堀とそこに架かる橋を撮影したもので、城址内には福井県庁の建物がありました。当時の写真を見てみると、右側の法面が堀の方向に滑り出し、大きな亀裂が何本も走っている様子がうかがえます。右の写真は現在の様子で今も城址内には福井県庁が存在しています。
当時の様子 現在の様子
参考文献 よみがえる福井震災
写真提供 福井新聞社
データ番号
撮影地点 福井市順化1丁目付近
撮影方向 南側から撮影
建物等の名称 人絹会館前通り
画像
 当時の写真で左側に写っているのが人絹会館で、燃え盛る炎の中を走る米兵の姿が写されています。また、写真右側に写る大衆館では当時大人気の「愛染かつら」が上映されていました。右の写真は現在の様子で今も映画館が存在しています。
当時の様子 現在の様子
参考文献 よみがえる福井震災
写真提供 中日新聞社
データ番号
撮影地点 福井市中央1丁目
撮影方向 東側から撮影
建物等の名称 松竹座劇場
画像
 これは松竹座前の通りを撮影したものです。この周辺は震災後の火災の火元と言われており、この劇場も即座に焼き尽くされてしまいました。隣接する道路の高さよりも建物が沈下している様子が見られます。今現在、その劇場はなくなり、テナントビルが建っています。向かい側にはデパートができ、道幅も以前より狭くなっています。
当時の様子 現在の様子
参考文献 よみがえる福井震災
写真引用 米極東軍総司令部報告書
データ番号
撮影地点 福井市舟橋町〜福井市稲多元町
撮影方向 北側から撮影
建物等の名称 九頭竜川鉄橋
画像
 これは、九頭竜川に架かる、旧国鉄北陸本線九頭竜川鉄橋の写真で、橋桁が湾曲し、完全に倒壊している様子と水浴びをする親子が写っています。現在ではアーチ形式の道路橋となっています。
当時の様子 現在の様子
参考文献 よみがえる福井震災
写真提供 朝日新聞社(ジェームス・原谷氏撮影)
データ番号
撮影地点 福井市中角地区
撮影方向 北西から撮影
建物等の名称 中角橋
画像
 この中角橋は福井市と芦原町を結ぶ幹線道路で、九頭竜川に架かる重要な橋です。構造形式は13径間単純合成桁で、桁は鉄製、床板は鉄筋コンクリート、13本の橋脚はコンクリート製でした。橋桁の落橋の主な原因は、橋脚の基礎部分の安定が不十分だった点だといわれています。右の写真は現在の様子です。
当時の様子 現在の様子
参考文献 よみがえる福井震災
写真引用 米極東軍総司令部報告書
データ番号
撮影地点 福井市板垣地区
撮影方向 東側から撮影
建物等の名称 板垣橋
画像
 これは福井城址南東の足羽川に架る板垣橋で、当時の板垣橋は橋長156m、幅員4.5m、構造形式は13径間単純桁で桁と橋脚は全て鉄筋コンクリート製でした。崩壊の仕方が中角橋とよく似ており、橋桁のほとんどが落橋しています。現在の橋は昭和57年度完成のもので、橋長160m、幅員13mとなっています。
当時の様子 現在の様子
参考文献 よみがえる福井震災
写真引用 米極東軍総司令部報告書
データ番号
撮影地点 坂井郡丸岡町霞
撮影方向 東側から撮影
建物等の名称 丸岡城
画像
これは東側から見た丸岡城の惨状です。石垣の崩壊が地震の凄まじさを物語っており、町のシンボルともいえる丸岡城の崩壊は、震災に遭遇した多くの人々に衝撃を与えました。町では、城の柱や瓦などをそのまま保管し、復興計画を実行、震災から7年後に完成し、現在に受け継がれています。
当時の様子 現在の様子
参考文献 お天守がとんだ
写真提供 「重要文化財丸岡城天守修理工事報告書」より
データ番号 10
撮影地点 坂井郡丸岡町石城戸
撮影方向 西側から撮影
建物等の名称 国神神社
画像
 これは、毎年「丸岡まつり」が行われている国神神社の震災直後の様子です。直径1メートルもある境内の杉が焼けて横たわっているのが分かります。当時、写真右に写っていた石碑は現在、神社内の別の場所に移動されており、参道の位置も当時とは若干変わっています。右の写真は現在の本堂の様子で立派に復元されました。
当時の様子 現在の様子
参考文献 お天守がとんだ
写真提供 岡崎重男 氏 (丸岡町在住)
データ番号 11
撮影地点 坂井郡丸岡町石城戸
撮影方向 北側から撮影
建物等の名称 石城戸通り
画像
  これは丸岡町を南北に貫く石城戸通りを北側(荒町方面)から撮影したものです。当時、通り沿いには商店等が建ち並んでいましたが、建物のほとんどが軒並み倒壊するか、もしくは焼き払われていました。通りいっぱいにはみ出した残骸の中を歩く人々が写っています。右の写真は現在の石城戸通りです。
当時の様子 現在の様子
参考文献 お天守がとんだ
写真提供 岡崎重男 氏(丸岡町在住)
データ番号 12
撮影地点 坂井郡丸岡町谷町
撮影方向 西側から撮影
建物等の名称 京福電鉄本丸岡駅駅舎
画像
 当時丸岡町には京福電鉄の路線が2つあり、この本丸岡駅はそれらの路線の分岐駅となっていました。現在それらの路線は廃線となり、京福バスのターミナル駅となっています。今も当時の駅舎が残されており、利用されています。
当時の様子 現在の様子
参考文献 お天守がとんだ
写真協力 日本映画新社
データ番号 13
撮影地点 坂井郡丸岡町長崎
撮影方向 東側から撮影
建物等の名称 新田義貞公墓所(称念寺内)
画像
 これは、丸岡町称念寺内にある新田義貞公の墓所で、震災により本堂、小書院、阿弥陀堂、蔵、新田公御墓中雀門すべてが全壊し、境内では墳砂が確認されました。左の写真はその中の中雀門の様子で、完全に崩れ落ち、石の灯篭なども倒れているのが分かります。右の写真は現在の様子で、立派に復元されました。
当時の様子 現在の様子
参考文献 お天守がとんだ
写真提供 称念寺
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