データ番号 85
撮影地点 新潟市川端町
撮影方向 北東側から撮影
建物等の名称 昭和大橋
画像
 これは新潟市を流れる信濃川に架かる昭和大橋です。当時、この橋は国民体育大会に間に合わせるため約2週間前に完成したばかりでしたが12ヶ所ある橋梁のうち5ヶ所が落下してしまいました。右の写真は現在の様子で、ほぼ同じ外観ですが地震の教訓から強化された橋脚が目に付きます。
当時の様子 現在の様子
参考文献 新潟地震と防災技術
写真提供 北陸建設弘済会
データ番号 86
撮影地点 新潟市花園
撮影方向 西側から撮影
建物等の名称 新潟駅2番ホーム
画像
 この当時の写真はJR新潟駅の2番ホームの様子であり、上下に大きくうねっている様子がよく分かります。駅舎も天井が崩れ、構内やホームには5〜10mに及ぶ亀裂が至る所に生じました。地震時には急行「越路」など4本の列車がこの駅に立ち往生し、約500人の乗客がそのまま車内で不安な一夜を過ごしました。現在の様子は同じアングルで駅の2番ホームを撮影したものですが、駅は被災後全く新しく建てかえられたものなので当時の場所とは異なります。
当時の様子 現在の様子
参考文献 毎日グラフ
写真提供 毎日新聞社
データ番号 87
撮影地点 新潟市花園
撮影方向 東北東側から撮影
建物等の名称 東渡線橋
画像
 これは新潟駅から東側にある渡線橋を撮影したものであり地震時には入れ替え中だったディーゼルカー にのしかかってしまいました。右の写真が東北東側から撮影した現在の様子ですが橋桁も強固に作りかえられています。また、手前のトラスは当時と同じ形のままになっています。
当時の様子 現在の様子
参考文献 毎日グラフ
写真提供 毎日新聞社
データ番号 88
撮影地点 新潟市川端町
撮影方向 北北東側から撮影
建物等の名称 万代橋
画像
 これは信濃川にかかる万代橋の左岸径間部を撮影したものであり、橋桁が傾いている様子が確認できます。昭和2年に起工されたこの橋には地震の影響は設計に考慮されていませんでしたが、地震後も通行可能のままでした。右は現在の写真ですが同じような外観で造られています。撮影した現在では、やすらぎ堤の整備が進められていました。
当時の様子 現在の様子
参考文献 新潟地震と防災技術
写真提供 北陸建設弘済会
データ番号 89
撮影地点 新潟市万代町
撮影方向 東南東側から撮影
建物等の名称 万代橋取付け部
画像
 これは万代橋の右岸側取付け部を撮影したものであり、地震後も通行が遮断されれことなく人々に利用されている様子が分かります。同じく信濃川に架かる昭和大橋や八千代橋は震後通行が遮断されたのに対しこの橋が通行可能のままだったことは、市内の震後の救急、救援、応急活動に貴重な役割を果たしたものとして大きく評価されます。右の写真は現在の様子ですが取付け部や高欄の形なども当時と同じようになっています。
当時の様子 現在の様子
参考文献 新潟地震と防災技術
写真提供 北陸建設弘済会
データ番号 90
撮影地点 新潟市川端町
撮影方向 東南東側から撮影
建物等の名称 八千代橋P2橋脚
画像
 八千代橋は昭和大橋の下流およそ600mに位置し、昭和37年11月に竣工した橋です。地震時には橋脚が大きく傾き、落橋寸前でした。このため路面には25cmのすれ違いが生じました。現在の橋脚は大きくなっており、堤防がつくられたために川岸からの距離は広がりました。
当時の様子 現在の様子
参考文献 新潟地震と防災技術
写真提供 北陸建設弘済会
データ番号 91
撮影地点 新潟市幸西
撮影方向 西南西側から撮影
建物等の名称 八千代橋P12橋脚
画像
 これは、信濃川右岸側の八千代橋の橋脚の様子であり、地震によって亀裂が生じて傾いている様子が分かります。しかし、P2橋脚と比較すると路面の段差も5cmと小さく、被害は小規模でした。右は現在の写真であり、周辺では堤防の整備が進められています。
当時の様子 現在の様子
参考文献 新潟地震と防災技術
写真提供 北陸建設弘済会
データ番号 92
撮影地点 新潟市川端町
撮影方向 北西側から撮影
建物等の名称 昭和大橋橋上
画像
 これは、信濃川左岸の昭和大橋のたもとから橋上を撮影した様子であり、道路が大きく地割れしている様子がよく分かります。橋梁取付部の変状は右岸側は軽微でしたが、左岸側は大きな被害を受けました。右の写真は現在の様子であり、綺麗に整備されています。
当時の様子 現在の様子
参考文献 シリーズ20世紀の記憶 高度成長 ビートルズの時代 1961-1967
写真提供 毎日新聞社
データ番号 93
撮影地点 新潟市一番掘通町
撮影方向 南南西側から撮影
建物等の名称 新潟市体育館
画像
 これは新潟市体育館を撮影したものであり、地盤の液状化によって建物が傾き、浸水してしまいました。この建物は同年に行われた国体のためにつくられたものでしたが地震後は使えなくなってしまいました。国体は5日前に終わっていたため、参加者の被害はありませんでした。右の写真は現在の様子であり、外観は当時の建物とよく似たつくりになっています。
当時の様子 現在の様子
参考文献
写真提供
データ番号 94
撮影地点 新潟市一番掘通町
撮影方向 南西側から撮影
建物等の名称 陸上競技場入口
画像
 これは陸上競技場を入口から撮影したものであり、浸水している状況です。競技場内の観客席は歪んでしまいました。この競技場は同じ年に行われた国体のためにつくられたものでしたが、地震後は使えなくなってしまいました。右の写真は現在の様子で、立派につくりかえられました。
当時の様子 現在の様子
参考文献 新潟日報 号外(S39.6.16)
写真提供 新潟日報社
データ番号 95
撮影地点 新潟市白山浦
撮影方向 側から撮影
建物等の名称 白山駅ホーム
画像
 これは白山駅のホームを撮影したものであり、地盤が変状しホームの屋根は大きく傾き、レールは波打つように変形してしまっています。地震後、乗降場は全面的に撤去されて、新たに長さ5mのレール杭を基礎として、コンクリートブロックによって新設されました。右の写真は現在の様子であり、多くの学生の通学に利用されています。
当時の様子 現在の様子
参考文献 新潟地震と防災技術
写真提供 北陸建設弘済会
データ番号 96
撮影地点 新潟市礎町
撮影方向 西側から撮影
建物等の名称 礎町国道7号交差点
画像
 これは万代橋左岸につながる国道7号の交差点を撮影したものです。当時は、370mにわたってアスファルト舗装に亀裂、沈下、噴砂、地盤全体の沈下などが生じました。写真では破堤による浸水を防ごうとする様子が伺えます。右の写真は現在の様子であり、交差点角の建物の形が当時の建物とよく似ていて、面影が残っているのが分かります。
当時の様子 現在の様子
参考文献 シリーズ20世紀の記憶 高度成長 ビートルズの時代 1961-1967
写真提供 毎日新聞社
データ番号 97
撮影地点 新潟市川岸町
撮影方向 南西側から撮影
建物等の名称 県営アパート
画像
 これは川岸3丁目の県営アパートを撮影したものであり、4階建てのアパートが地盤の液状化によって倒れてしまいました。揺れによって倒れたのではないので、地震時にはゆっくりと倒れ、建物自体に被害らしきものは全く見られなかったそうです。右の写真は現在の様子ですが、当時の面影は全くなく跡地は駐車場として利用されています。
当時の様子 現在の様子
参考文献 新潟市の地震災害の特徴について
写真提供 国土交通省 北陸地方整備局 信濃川下流工事事務所
データ番号 98
撮影地点 新潟市東大通町
撮影方向 南西側から撮影
建物等の名称 明石通り(清水商店)
画像
 これは明石通りを南西側から撮影したものであり、辺り一帯が浸水しており、多くの市民が浸水から免れようと右往左往しています。後方に見える黒煙は石油コンビナートの火災よるものです。右は現在の明石通りの様子ですが、当時の面影は全くありません。
当時の様子 現在の様子
参考文献 毎日新聞 号外(S39.6.17)
写真提供 毎日新聞社
データ番号 99
撮影地点 新潟市東大通町
撮影方向 側から撮影
建物等の名称 明石通り(清水商店)
画像
 これは明石通りを東側から撮影したものであり、浸水がおさまってからの様子です。正面に見える4階建ての商店は地盤液状化のために大きく傾いています。右の写真は現在の様子であり、当時の商店の地点は現在の郵便局の一部分になっており当時の面影はありません。
当時の様子 現在の様子
参考文献 シリーズ20世紀の記憶 高度成長 ビートルズの時代 1961-1967
写真提供 毎日新聞社
データ番号 100
撮影地点 新潟市万代町
撮影方向 東北東側から撮影
建物等の名称 東港線十字路
画像
 これは万代3丁目の様子を撮影したものであり、通りが浸水し建物が傾いている様子がわかります。右の写真は現在の様子であり、当時の面影はありません。当時のトヨタの建物の位置は、現在交差点角にあるガラス張りのcosmicビルに当ります。
当時の様子 現在の様子
参考文献 Past新潟 <5>地震の後   2001/11月号
写真提供 山崎 秀夫 氏 
北陸地方の災害 へ