加藤氏の資料を見てもらう前に福井地震がどういう地震なのか知ってもらうためにこのページを作りました。

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 今から丁度50年前の1948年(昭和23年)6月28日16時13分(当時はサマータイム制であり実時間は午後5時13分),福井県北部にある丸岡町付近の直下を震源とするマグニチュド7.1の地震が発した.北は関東甲信越地方から南は中国・四国地方の広い範囲で有感となり,主な被害は福井県と石川県に発生した.震源が浅く沖積平野の直下に発生した地震ということで,地震の規模に比べてその被害は極めて甚大で,福井平野の中部と北部は壊滅的な状態となり最大震度6を記録 した.火災が主な原因で死者は3千人以上となり,全壊率が100%に達する集落も多かった.
 これらの被害をまとめた資料の一つ福井烈震誌(福井市,1978)では,当時の福井市の様子を故大武幸夫元福井市長が 次のように記している.『昭和二十三年六月二十八日,この日は朝からどんより曇って蒸し暑く,何となくいやな感じのす る一日であった.人々は窓を開け,少しでもと外気を求めた.時に午後五時十四分(サマータイム),学校の授業がすんだ 子供達は喜々として戯れ,一日の勤めを終えた人々は「ほっ」として家路を辿っていた.その瞬間,突如「ごおっ」という 気味悪い音がしたかと思うと,大地は「ぐらぐらっ!」と大波の如くうねり,家も,人も,犬も,地上のあらゆるものは大 地にたたきつけられた.橋という橋はいくつにも折れて河中に墜落し,進行中の汽車や電車はその場に横倒しになった.土 煙で空は夕暮れのように暗くなり,余震はひっきりなしに続いて,正に地球最後の日を思わせた.地震と共に,市内各方面 から火災が発生し,猛烈な勢いで全市に拡がった.建物の下敷となって圧死する者数知れず,生きながら焼かれて死んだ人 も少なくなかった.こうしてほんのわずかの間に,市内の家屋一万五○○○余戸が倒壊し,二○○○戸余りが焼失,九五○ 余名の人々がその尊い生命を奪われた.』
 震源域の福井市では,この3年前の昭和20年7月19日,米軍の大空襲により全市の約95%を焦土と化され,その復興にも う一息という時の震災であり,また1ヶ月後の7月23日から25日にかけて発生した豪雨は洪水をもたらし,復旧事業に大き な支障を与えた.たった3年の内に戦争,地震,洪水という三重苦に見舞われた人々の苦しみは計り知れない.
 明治以降の震災について死者数で比較すると,福井地震は大正12年の関東地震,明治29年の三陸地震津波,明治24年の 濃尾地震,平成7年の兵庫県南部地震に次いで第5位であり,典型的な都市直下型の震災であった.また,この地震をきっか けとした地震工学上の発展も多く,気象庁震度階には震度7が制定され(兵庫県南部地震で初めて震度7を観測),SMAC型 強震計の制作や建築基準法に地域別の設計震度を導入する考えが出されたのもこの地震以降のことである.

事項 内容
発生年月 1948年(昭和23年)6月28日16時13分
震央地名 福井県北部(丸岡町付近)
震源位置 東経36.17度,北緯136.20度,深さ0km 福井県丸岡町付近
震源規模 M7.1
断層 北北西-南南東,左横ズレ
人的被害 死亡者3,769名,負傷者22,203名
住家被害 全壊36,184戸,半壊11,816戸
液状化 福井平野の河川流域で多数発生
津波 発生せず
火災 焼失3, 851戸
山地崩壊 砂丘地帯で発生
道路施設被害 650個所,599km,被害見込額4億1000万円
河川堤防被害 126個所,140km,復旧見込額20億5000万円
橋梁被害 道路橋300橋,鉄道橋131橋,復旧額2億1574万5361円
砂防施設被害 記述なし
鉄道施設被害 96km,復旧見込額8億2182万6000円
港湾施設被害 4港,復旧額4996万8000円
電力施設被害 発電施設17個所,変電施設17個所,送配電施設多数,被害額3億円
通信施設被害 通信電話線7回線不通,復旧額1億975万1000円
ガス施設被害 給水管9万9491m(福井市),被害額7402万722円
上水道施設被害 送配給水管2,304個所(福井市),復旧額8400万円
下水道施設被害 施設希少かつ被害軽微,事業額1億8600万円

関西ライフライン研究会が編集・発行した「明治以降関西地域の地震と被害(1995)」より引用した。
(3.11福井地震,pp.212-245,吉田が分担執筆)