福井地震(昭和23年6月28日)
〜重傷者の受傷後20時間の動向〜


.別紙「動線図」の説明文の形式で記述する。本文中の見出しの番号は図の中の番号である。)

.サマータイム(夏時間)とは夏の間だけ時計を標準時刻より1時間進める時間制度であり,日本では昭和23年〜26年まで実施された。)

.この文章は加藤恒勝氏が1989年(平成元年)9月に書かれた手記を,本研究室でテキスト化してホームページ上で公開しているものであり,その手記の著作権は加藤恒勝氏が有するものである。)




















1.被災現場

 東宝文化劇場(別紙被災現場概念図参照),すでに映画は上映されている。暗い館内を3分の1程進んで,通路から3番目の椅子に着席する。(スクリーンを見つめて1,2分した時であったか)ドンという音と衝撃,地震だと直感する。前の椅子に掛けた上着と雑のう(ショルダーバック)とをつかんで,よろめきながら出口へ,明るい出口の前を,建物の破砕片が滝ののように落下している。突破をためらった次の瞬間,下敷きになる。(別紙被災現場概念図参照)上腕部がはさみつけられている。(入り口のモルタル床・倒れた自転車の車輪・腕・モルタルで外装した梁の順)
(.地震発生サマータイム午後5時14分)
 映画館主・従業員等の男子数人が,折れた柱をてことして梁を浮かせ私を救出することを試みる。余震のたびに作業中断。荷重大きく救出不可能。私のやや後方の内側で助けを求めていた婦人は,自力で脱出したのか静かになる。私を救出しようとしていた人たちは,一人去り二人去り徐々に立ち去る。関東大震災の時腕を切断して救出された者があったという話を,ふと思い浮かべる。
 空を仰ぐと,黒い煙が北北西に向けて走っているのが目に入る。腕切断を決意し,ひとり残っていた映写技師にその旨を伝える。彼は了解し,切る物を取りに走り去る。
(.下記の記事を参照すれば,この時点の時刻は,サマータイム午後5時30分〜5時50分ごろと想定される。)
 ・・・5時27分,1本の薄い灰色の煙の束が傾きかかっている百貨店の背後にノロノロと這いあがっていく。火事がすでに始まったのだ。・・・(マイダンス記者が打電した記事の一部。『福井烈震誌』P.1174)
 道路の方は(砕けた物が堆積していく。私には見えない)先刻来の騒がしさも静かになる。仰向けのまま右手をつかって放尿する。
 映写技師は斧を持参し,連れの男が腰ひもを持ってやって来た。腰ひもで腕の付け根を固く縛ってくれる。余震のたびに締め付けられて,しびれていた腕がいっそうしびれ,切っても痛くなかろうという気になる。映写技師は私に斧を渡し,自分で切れと言って物陰に隠れる。
 私は,自分の左腕に斧をたたきつける。3回血みれにになる。しかし,切り終えそうもない。オーイと叫んで彼らを呼ぶ。 
 切れたか
 まだ・・・
(すでに血まみれの腕を見て)映写技師が斧をふるう。斧が打ち下ろされるたびに,うでから心臓にかけて大衝撃がある。(おおよそ切れてからは,しゃがみ込んで切る。)10回あまりで切り終える。(彼は,切り始める前に,大判の本ほどの板切れで,私の腕の付け根から首にかけて覆った。斧がそれた時の用心である。)
 切り終わると,私はバネ仕掛けのように自然に立ち上がって走り出そうとした。彼らは待てと言って引きちぎったカーテンで傷口をくるみ,両側から肩を組むようにして表へ走り出る。
(.時刻は,午後5時50分〜6時10分頃で,地震発生から35分〜55分程の経過である。’だるま屋デパートは,地震2時間後に全焼した。’と,『福井烈震誌』に坪川氏が述べていることからすれば,類焼30分程前の脱出である。)
(.斧の入手については後日,映写技師が進駐軍宿舎からと述べている。別紙動線図のB,進駐軍宿舎,もしくはC,軍政部クラブであろう。いずれにしても往復数分の位置にある。
 


2.路上に放置の運搬車に乗る

 既に路上は避難する人影もとだえたようである。この重傷者を肩を組んで走らせる。前方にある市役所の望楼がくるくる回って見え,苦しい。
 2の地点,仕出し屋くらやの前の路上に,三輪運搬車が大きなまないた一枚をのせたまま放置してある。それに乗らされ順化小学校の校庭に避難する。
   


3.順化小学校の校庭

 校庭は,避難者と搬出された手回り品とで混雑している。そこへ下される。患部を上にして横たわる。(以後,常にこの姿勢である。)助けてくれた映写技師らは去る。
 ちんぴら風の若い男がチョコレートとりんごとをくれる。のどが渇くので,りんごをかじるが,食べる気にならずいらないと思ったとたんに,りんごは手から離れて地に落ちる。またしても渇くので,同じ事を再三くりかえす。体力の衰弱の度を意識する。患部に痛みやうずきはない。
 半壊の校舎(空襲で焼失後のバラック,平屋)の中で,友人の大橋教諭が校具をせっせと搬出しているようすが,向こうの火災の明るさで影絵のように見える。それを安らかな気持ちで眺めている。
 ここに避難していた顔見知りの品川書店の主人が,横たわっている私を見つける。彼は,県庁前に救護医療所が設置されたらしい。そこへ・・・と知人を呼びに集め,戸板に乗せて搬送する。戸板がゆれるたびに患部を覆ったカーテンの上に血の泡が噴く。
 私は,それをわりに冷静な気持ちで見ている。むしろ,生き抜いてみせるぞという気が少しずつ沸き出てくる。
  
4.応急救護所

 県庁前広場の応急救護所へ着く。私を運んだ人たちが身振り手振りで進駐軍の軍医に頼みこんだ。患部に赤チンキの塗布と注射を二本の処置。(救護所には,日赤福井病院の救護班も加わっていたようであったが,机一個を中心に7,8名程度の人数で対応していた。小さなテント一張りがあったかもしれない。)(時刻は6時30分前後か。)(二本の注射は,強心剤・破傷風血清注射であろうと思いこんでいる。後日,鯖江国立病院で同室の元気だった負傷者が,破傷風で2名も死去したが,その菌におかされそうな私が難を逃れた。)
 広場に横たわっていると,私の自宅に近い魚屋の主人を見かけた。声を掛けて支度への連絡を頼む。(魚屋の主人も負傷していたので,ひとりで歩いて来たのである。彼の家族の負傷の処置のことであったかも?)(私をここまで運んだ人たちは,救護所の処置が終わると,すぐに引き上げたように思う。知人にしろ,救護班員にしろ,付き添ってくれる余裕はない。)
 間もなく妹(T)が来る。妹のつてで乗用車が工面され,日赤福井病院へ向かうことにする。
(.救護所の中枢であったこの救護所で治療を受けたので,私の受傷は現場で腕を切って脱出した青年がいると,報道関係者に伝わったようである。翌朝,東京の新聞記者が病院へ取材に来たが,他にも留守先に住所を訪ねてきたりしている。カール・マイダンスも進駐軍軍医により取材したとも考えられる。(ただし,彼の自筆の文章には,私の被災現場(類似事例かも?)に遭遇したような表現がある。)


5.日赤福井病院へ向かう

 5の地点,左側の民家が火災を吹き上げている。運転者はあっと声をあげて慌てて市役所前までバックする。(市内中心部は火の海であろう。そういう情報を知らないままの行き当たりばったりの行動だったのである。)
日本医療団福井県中央病院(現.県立病院へ向かうことにする。)悪路で車がゆれる。血の泡が噴く。
(.中央病院までの行程について,県庁前〜志比口踏切の間,通過道路の特定できない。(自宅に寄った記憶はない。)別紙「動線図」では赤の点線で示す。)


6.道路閉塞 担送となる

 志比口踏切を越えた6の地点付近,両側の民家が道の方へ倒壊していて,自動車の通行不能。近くの人の協力で,戸板で以て中央病院まで担送される。
(.『福井震災誌』『福井烈震誌』によると,福井軍政部は,いち早く道路の啓開にあたったとあるが,南や北からの救援ルートは確保されたが,当方面は手が回らなかったのであろう。翌朝もこの間は同じように担送であった。)


7.福井県中央病院

 病院の草原に横になって治療を待つ。負傷者と家族らで混雑している。日が暮れる。
 私の治療がようやく草原の上で始まる。看護婦1人と妹は私をおさえつけている役,他にローソクの明かりを持ったり,助手を務める看護婦。
 治療は,はさみでピシピシ(血管を)つまんで糸でくくっている。壊れた病院の一室が向こうに明るく見える。看護婦が数人,そこへ医療品を取りに入っているらしい。余震のたびにキャーといって跳び出る。ローソクを持つ看護婦の手がゆれて肩に落ちるろうが熱い。医者が時おり看護婦をどなりつける。
 腕断端の止血が終わり,裂傷を受けている後頭部を消毒し縫合する。針を通すたびにしくしく痛い。(腕の施術に麻酔薬は使用されなかったと記憶している。横になって安静にしているかぎりでは苦痛はなく,意識明瞭である。)
(.この時の腕の施療は,血管の結紮で,断端は複雑な傷口のままである。小坂政一氏は,昭和20年4月から同病院長,外科担当)
(.血管の結紮が終了した時刻は,既に日は暮れていたので,8時半から9時前後と考えられる。当時はサマータイム実施中,この文の記載もサマータイムを用いている。)
 まっくらになってからも,重傷者がリアカーや戸板などで運ばれてくる。森田町からだが,九頭竜川の橋が落ちているので難儀したなど話している。
 輸血などということになるかもしれん。そばを離れるなと,妹に指示する。夜中のひと時,雨がぽつぽつ落ちる。困ったなと思ったが降り止む。蚊になやまされる。(他の患者の付き添いが張った蚊帳(かや)に入れてもらったか,記憶あいまい。)
 うとうと眠ると,うなされて目が覚めること数回。
 朝になる。飛行機が松林の向こうを低空で旋回している。生きながらえたなと思う。気分爽快である。東京の新聞記者だという青年が取材にくる。


8.日赤病院へ向かう途中の路上

 本格的な治療のために,日赤福井病院へ行くことにする。
(.行政的な指導・指示のない状況,現時点では各自の判断である。)
妹が徒歩連絡で昨日の自動車を回してくれる。6の地点まで担送,以後自動車。気が付くと,受傷以来,枕もとや足もとに置いた,麻の上衣がない。(先刻,担送を手伝ったひげずらの男が持ち去ったな,と思う。)他人から借りた地図を入れた雑のうはあるので,まあまあと思う。
(.志比口踏切〜大名町ロータリーの間,通路特定できない。)
 自動車の座席から伸び上がって,市街の惨状を見ながら行く。私は,戦勝者のように興奮している。
 8の地点で自動車が停止する。伸び上がって外を見る。南の方から入ってくる救援車両で渋滞しているらしい。探検家のような服装をしたアメリカ人のカメラマンと通訳たち3,4人が私の所へ来て話しかける。シャッターをきる。近隣の人たちもどやどやと来る。
(.このカメラマンが,ライフの記者カール・マイダンスであろう。昨日もどこかで出あっていたようなことであったが,今日,その場所など記憶は確かではない。近隣の人々の中に,友人の岩佐勝利氏の顔があった。後日,妹はこの時,岩佐氏の母親らしい人からゆでじゃがいもをもらって,おいしかった,というが,私にはゆでじゃがいもの記憶はない。当時,私が何を食べたか食べなかったか,とにもかくにも食欲はなかったように思われる。)
(この付近は,私の職場である豊(みのり)小学校の校下であり,私はひときわ興奮していた。カール・マイダンスの随想にあるような冗談のひとつも気負ったあまり口にしたかもしれない。この随想とは,『動乱』p314〜321のp321の個所。)


9.赤十字福井病院前〜鯖江へ

 やがて日赤病院到着,先のカメラマンの一行に再びあう。次々と運ばれてくる重傷者の惨状をカメラに収めている。
 門を入ったあたりに応急救護所のような人の集まりがある。近づくと,重傷者は鯖江国立病院行きと言われる。次々そう言っている。(昨日来日赤病院ならと思っていたが,ここもほとんど壊滅の状態だとは知らなかった。)
 鯖江輸送の順番をしばらく待たされたが,やがて輸送のトラックに乗る。私たちが乗ったトラックはだるま屋百貨店のものである。無蓋の荷台に負傷者が5,6人横になったり,うずくまり,付き添いらしい者も何人かを乗せて出発する。私に昨夕から付き添った妹に替わって,母が乗る。 
 ゆれの大きいトラックでは,ずっと横になっていた。トラックは出発すると間もなく花堂地区で渋滞した。国道といっても狭く,北進する大量の救護車両に阻まれ,南進も,のろのろずくめである。空しか見えず,太陽が照りつける荷台で,だんだん苦しくなってくる。やがて頭上に松の木の枝が次々と走るのが見えた時,国立病院へ付いたなと,ほっとする。
(.日赤福井病院の出発は午前8時〜9時ごろと考えられる。鯖江国立病院着の時刻は不明であるが,この行程に2時間前後,あるいは3時間を要したとも思われる。)


10.鯖江国立病院での治療その他

 ベッドが10台ほどの病室へ収容された。
 脊椎損傷者は寝たきりであったが,外見上は私が最も重傷のようであった。
 看護婦が血液型を調べたり,日に何度か検温などを記録していった。
 4,5名からなる医師団(インターホン等を含んでいたと思われる。)が入れ替わり検診に来た。傷口を見て会話を交わし,ランク付けをしているようであった。わりに元気だなあと言うのが聞こえたりした。
 手術など本格的治療はまだのように思えた。
 食事はおもゆであったが,食欲はなかった。
 その日の午後か,翌日であったか,見知らぬ面会人があった。映画を見に行った弟が帰宅しないが,腕を切断して助かった青年は,弟ではないかと検分に来たのである。彼等はがっがりして帰っていった。
 入院の翌日(地震から3日目),夕刻近くになって手術となった。全身麻酔であるが,縫合のころに麻酔がさめ,腕をもぎとられるような痛さであった。局部麻酔を打ったようだが痛い」「痛いと言うと自分で腕を切った人が,これくらい我慢しなさいと婦長の声がとんだ。(この執刀は日赤京都病院からの救援医師によった。)
 入院以来,傷はだんだん痛んだし,夜もろくに眠れなかったが,手術が終わるともっと痛んだ。近くを人が通るだけの振動が床板から伝わって,うずいた。夜はうなされ通しであった。
 手術後1日たった頃から痛みはやわらぎ食欲も出てきた。
 (破傷風での死者があったころから)首の付け根の血管にする注射が加わったが,気味の悪いものであった。
 食事をする時は,だれもがするようにベッドの上にあぐらをかいて食べたが,ころりと転倒するような不安を感じた。(身体のアンバランス感は食事以外では気付かずにいた。)左半身が軽くすぎる感じである。右膝を立てることでバランスがとれた。
 映写技師の山崎さんが見舞いに来た。切るには切ったが助かるかどうかは不安で・・・というようなことを言った。快方に向かっていると聞いて見舞いに来たのであろう。
 自分で切れと言って,外で待っている時,よもや自分では切れまい,もう見捨てて行こうと思った。その時,あなたがオーイと呼んだという話を彼はした。そういう瀬戸ぎわがあったのを初めて知った。
 見舞いの客のない時は退屈で,4,5日したころから病院の中を歩きまわった。病院の近隣も散歩した。歩行にはなんら不都合はなかった。許可を得て四ヶ浦海岸へいって少し泳いでみた。思ったとうりどうにか,泳げた。7月25日(負傷から28日目)に退院した。



11.余録(「幻肢」(ファントム・リム)について)

 知人が寒くなると傷口がうずくそうですと言ったが,それらしい気配もなかった。
 ところが,10月末のある日,断端に妙な痛みを感じた。寒くなったのでうずきの前兆かと思ったが,そうではなかった。
 かゆいのである。しかも,存在しないう腕のあたりがかゆい。気味のよくない気持ちだが,かつて呼んだ長井隆博士の随想の中の一場面・・・大腿部からもぎ取られた負傷兵が,無意識にしきりと(無い太股の)甲板を引っかいている。・・・を思いだし,ああ,あれだなと思った。
 かゆいことのほかに,無い腕の手のひらを,トロトロと暖かい液体が流れることもある。・・・映画館で下敷きになった時,手のひらは梁の向こうへ出ていた。何度か動かしてみたが,すると,暖かいもの(血)がトロトロと手のひらを指に向かって流れた。・・・それが今,寸分たがわず再現されている。
 ありがたくもない置き土産というか,奇妙な形見というか,これらの現象は10月以降,1日に何回かあった。かゆいのも,トロトロするのも肩をもんでやれば,すぐに消えはしたが,もぎ取られた腕の亡霊のようでいとしいとも思えた。
 数カ月を経ると漸減していって,今日では年に1,2度あるなしになった。
(注.当時,知人の心理学者が,それはざんぼう意識だと教えてくれたが,残忘・残亡・惨亡・・・かは聞き損じた。専門の辞典を探しても見あたらない。気になる語感である。)
(phantom−limbも,(まぼろしの腕・幽霊の腕)幻影肢・幻想肢・幻肢など,なるほどと思われる。私の幻肢は幸いにも幻肢痛をともなわなかった。)



12.加藤恒勝氏の経歴

大正11年1月福井市に生まれる。昭和16年4月福井師範学校卒業。同年福井市豊(みのり)小学校勤務。昭和17年12月現役兵として入隊,中支戦線の戦闘に参加する。昭和21年6月復員,学校復帰。(地震当時26歳)


13.この手記の記述について

1.受傷後20時間とは,当受傷者が災害地の異常な状況下に置かれていた時間である。この時間内の動向が生死を分けたと考えられる。
2.NO1〜9までが,その20時間であって,客観的な記述につとめた。
3.時刻や経過時間は,火災の発生・類焼状況・日没などを,体験した状況と文献等を交差させるなかで求めたものである。
 ただし,参照した『福井震災誌』その他にも,時刻についての記載は乏しく,指針となるものはわずかであった。したがって,当手記などの累積が,時・所・状況を立体的に明確にするともいえる。
4.被災者(私)の心理描写や心身損耗の状態も,修飾的な表現をつとめて避けながら記述した。


14.補遣(心身の状態の推移)

 被災現場・・・関東大震災時の事例を想起し,その事例にかける。
 避難した校庭・・・意識は明瞭であるが,肉体的には極限の状態。ただし,周囲の人々から,瀕死の重傷者と見られる中で,闘志のようなものが出る。
 中央病院・・・止血の処置完了で,死からの歯止めができたと感じ,自信がわく。
 翌朝・・・生きて朝を迎え,この災害における勝者,ヒーローの気持ちになる。
 トラック輸送以降・・・心身の疲労が出る。傷の疼傷はないが全身が苦しい。


15.参考にした文献

(「」は,その中の該当見出し名である。)

『福井震災誌』・・・福井県,編集昭和24年6月   
『朝日新聞』福井板「人間も復興」・・・昭和24年6月
『世界の写真家』「カール・マイダンス」ダヴィド社,刊・・・1965年(昭和40年)3月
『動乱』「鯰」・・・カール・マイダンス著論争社,刊
『アースクウェイク』・・・p.162〜171(文と写真)タイムライフ社,刊
『福井烈震誌』・・・福井市,編集,刊昭和53年3
     とくに第3編 第4章・第7章第2節
        第6編 第1章第2節・第8節
『福井県空襲前後の医療史』・・・P.160〜161県医療師会編集昭和53年ならびに付図
『この道』・・・とくにP.536〜542 福井赤十字病院看護婦互動会編集,刊行昭和60年